カネを失う悔しさ
10万を貰う時の嬉しさは正直、世間に比べたら感動は薄いかもしれん。
だけどな、10万を失う時は世間と同じやねん!!分からんかな〜。
松本人志
わからないなりに、わかる気がした。
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10万を貰う時の嬉しさは正直、世間に比べたら感動は薄いかもしれん。
だけどな、10万を失う時は世間と同じやねん!!分からんかな〜。
松本人志
わからないなりに、わかる気がした。
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生かせるようになったときに生きてくるような情報を与えておく
確かに、考える力を鍛えることは必要。
でも大前提として、その考える力を下支えするだけの知識が必要であることを忘れて
いる気がする。
記憶力って大事だと思うんだ。
システマチックに言うと、
(1)まずインプット(入力)があって
(2)次にプロセス(処理)があって
(3)そしてアウトプット(出力)があって
(4)アウトプットからアウトカム(成果)が導かれる
ということになるわけで、そのインプットをすっ飛ばしてプロセスを追い求めても意
味ないじゃん、と考えるわけ。
あまつさえ、インスタントにアウトカムだけを求めるのはおかしな話だよね。
しかし、基礎的な情報の蓄積がない子供にプロセスを求めても、それは無理という
話。
本を読ませて、計算させて、漢字を書き取らせて、音読させて。
最初は学ぶことを強いて、強制して、詰め込んで。(=勉強)
いろんな情報を収集して、そしてそこから何を導き出すか。
それが「学問」じゃないのかな、と思うのです。
詰め込みといわれようがなんだろうが、その基礎的な内容、インプットの質と量が逆
に様々なプロセスを呼び起こす場合もあるわけ。
そこを、プロセスありきのインプットで語ってしまうからおかしなことになる。
確かに、考える力は大事。
でも、そういう机上の空論を繰り返すエライ人たちは忘れてると思うの。
沢山の知識、前提、バックグラウンド、歴史、、、そういった背景が彼らにあって、
それが今に息づいているということを。
九九や歴史や漢字や自然現象や、そういった雑多な知識から学んだ様々なことがあっ
ての今の思考体系だということを。
『y=(−b±√b^2-4ac)/2a』
という因数分解の公式が直接役に立つことはほとんどないけど、そこに至る過程で思
考方法を学び、それが肥やしとなって生きてくる。
「生かせるようになったときに生きてくるような情報を与えておく」
それが幼少教育なんじゃないかな。
だから、強制し過ぎない範囲で詰め込んであげるのは、必要なんじゃないか、って思
う。
まだ上手く考えがまとまってないけど。
今の僕はそう思っている。
・・・そう思いません?
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ハードルは高ければ高いほどくぐりやすい
某巨大掲示板
目の前にあるのが壁なのかハードルなのか、見極めが肝心と言うことですね。
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度を越えた誠実さは相手を図に乗らせる
http://diamond.jp/series/devil/10016/
人の要求はエスカレートするもの。
一気にエスカレートしたのであれば対応もできるが、徐々に上がっていく要求度合いをどこで下げるか、というのは難しいもの。
何のための誠実さなのか。
度を越えた誠実さ、つまり己を殺してまで誠実であろうとすること(≒相手の利益を優先すること)は自らの価値を下げることになる、と感じた。
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471 名前:名無したちの午後[sage] 投稿日:2007/02/16(金) 22:56:24 ID:sR5mjWf/0 お前が無駄に過ごした"今日"は 昨日死んだ誰かが 死ぬほど生きたかった "明日"なんだ
473 名前:名無したちの午後[sage] 投稿日:2007/02/16(金) 23:01:03
ID:RX1c0RPf0
俺が無駄に過ごした今日は「俺」の今日であって
どっかの誰かの明日では無い。
なんていうか、こう、今となってはどっちも引っかかると言うか、なんか論旨を摩り替えられてる感じがしてモヤモヤしてきた。
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某掲示板より
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哲学の授業で、教授が人生を一つの瓶に例えた話をした。
「この瓶に石を詰めてみよう。…さて、これでもう何も入らないかな?」
学生の一人が手を上げて答えた。「もっと小さな石ならその隙間に入ります。」
教授は頷き、小石を取り出し瓶に詰めた。
「さて、小石でだいぶ隙間が埋まった。これで瓶の容量は一杯かな?」
さらに学生の一人が手を上げた。「砂ならまだ隙間に入ります。」
教授は再び頷き、砂を取り出して瓶に注いだ。
「さて、これで石の隙間は小石と砂で埋まり一杯一杯だ。
この瓶を人生に例えると、石は家族や友人など生きるに欠かせない大切なものだ。
小石は、家や車、音楽や映画など人生をより豊かで楽しくしてくれるものだ。
砂などは取るに足らないくだらないものだ。もし真っ先につまらない砂で人生の瓶を一杯にしてしまったら石はもちろん小石も入る隙間のない不毛な人生となってしまう。人生をいかなるもので埋めるべきか、この瓶は教えてくれる。」
と、ここまで話したとき、とある学生が手を上げた。
「教授、その瓶にビールを注げば砂に染み込んでいくのではないでしょうか?」
教授は頷いた。
「人生がいかにつまらないもので満ち満ちていようと、アルコールだけは入る隙間があるということだな。」
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酒の愉しみを知らないおいらは、絶対、人生の数十%損してると思う。
ほんと、くやしいです。。。。。
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結婚した子供に親ができることは、相談にのってやることと、 間違いを犯したときに諌めたあとに励ましてやることだけ
女家女古
こういうこといえる親ってすごい。
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人は自由の刑に処されている
筋ジストロフィーの大学生(ニャー速5/8より)
「自由の刑」という表現にグサッときました。
ここ半年ほど、Blogの記事を書かずに自由な時間を謳歌していましたが、なかなか生産的なことって継続できないものですね。
ついつい目先の娯楽に走っちゃう。
自由を生かすためには、ある程度の不自由(抑圧)があって、そこから解放された勢いがないとだめなのかもしれませんね。
毎日が日曜日だとだらけちゃう、っていう感じ。
自由な時間を有効活用することが、僕の目下の課題なのかもしれません。
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バスの中でずーッと落ち着き無く騒いでいた餓鬼に母親が「運転手さんに怒られるから静かにしなさい」って言ったところ、
運転手さんは車内放送のマイクで
「運転手さんは怒っていませんよ。お母さん自分で叱ってあげてください」と
乗客皆失笑でした。
某巨大掲示板(ワラタ2ッキ経由)
運転手さんが怒るから、とかじゃなくて親であるお前がちゃんとしつけろよ!と思うことが今まで何度あったか。
「ほら、あのおばちゃんに怒られるわよ」とか、「おまわりさんにおこられちゃうよ」とかって子どもに言い聞かせてるアホがいた、って話はよく聞くけど、あれか、しつけの出来ていないケモノを世の中に放つ恥をいとわないほど、そんなに子どもから嫌われたくないのかお前らは、といいたい。
小さな小さな我が子に媚びてどうするんだ、世の中の大人よ!
ダメなものはダメ、悪いことは悪いと、ちゃんと教えてやれよ!!
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先日、満員電車に乗っていたときのこと。
奥のほうに乗っていた女性が駅に着いたと単に、無言で黙々と周りの人間を押しのけ始めました。
「失礼します」とか「すみません」とか一切無し。
人をかき分けかき分け降りていくわけです。
「あー、かわいそうな人だな」と思いました。
「すいませーん降ります」のたった一言も言えない様じゃ、他の立ち居振る舞いも想像がつくってもんです。
きっと、躾けのできない親に育てられたんだろうな、と思って憂さを晴らしてました。
だって、押しのけられて痛かったんだもん!
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幸福であろうと思えば、「こうでさえあったらなあ」という言葉をやめて、その代わり、「今度こそは」という言葉に変えなさい。
スマイリー・ブラントン
「君は周りに多くのものを求めすぎだ」と言われました。
人を変えようと思っても、それは労力の割りに報われないと。
それはまさしく「こうでさえあったなら」と都合のいい環境を夢想しているに過ぎないんだと、頭ではわかっているつもりなのですが、これがまた、なかなか。。。
どうすればその「不遇」な環境を克服できるのか。
答えはまだ出ていませんが、「こうでさえあったなら」と思って苦しんでいる自分を見つけるところから始まるんだな、とこの言葉に教えられました。
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